旅のおもひ
昭和50年頃だったでしょうか、確か「遙かなる旅路」という題だったかと思いますが、日本の黎明期から現代までの鉄道を舞台としたテレビドラマがありました。その100年に渡る鉄道マンの生きざまを描いた壮大なスケールの最終回には思わず吐息を漏らしたような記憶があります。
鉄道は、夏草に埋もれた引き込み線の線路ひとつでその先に繋がり広がる無限の旅を想い起こさせてくれます。だから私は鉄道の旅が好きです。以前は宿に宿泊しなくても鉄道に乗っているだけで何日も旅を続けることが出来ました。本当はそんな気儘な旅がしたいのですが、今では夜行列車や長距離列車が殆ど絶滅してしまい、国内ではかなわぬ望みになってしまいました。今、気儘な旅の望みを叶えてくれるのは自動車です。
過去の旅はこちら。
2001年10月 鳥取砂丘へ行く旅
平成13年10月6日(土)の午後、学校から帰ってきた次男を引き連れて山陰へ向かった。本当は10月8日(祝)に岡山である法事がメインの目的なので、3連休とは言え実質1日しか時間が無い。この1日で砂丘を見てキハ58の鳥取ライナーに乗って津山線の快速に乗るってんだからあまり正気の沙汰とは言えない。世間一般の正常なお父さんなら絶対に子供連れでそんな事しないよなぁと思っては見るのだが、いつも思って見るだけで態度を改めた試しが無いのだから仕方ないね。
で、新幹線でとりあえず大阪へ向かうとまだ夜の7時前だ。夜行急行だいせん(これはキハ65を改造したクルマで窓ははめ殺し。でも米子寄り先頭車は展望抜群)まではかなり時間が有る。とりあえず次男と大阪の町へ出るが、「暗い」「人が多い」「歩きにくい」「雑然としてる」とあまり良い印象は無かった。やっぱね、関東人vs関西人という構図の裏側には決定的な文化の違いがあるもんだから永遠に決着することは無いんだな。だいたいやね、何で大阪と梅田が駅名まで別モンなのよ?
ともかくだ、映画を見ることにする。梅田の駅前で見つけた映画館に入ってタイトルを見回しながら次男に「何が見たい?」と聞くと「陰陽師」だそうな。こいつ、小学校5年生のくせに何て地味でオヤジ臭いやつを選ぶんだと思いつつもそれを見ることにした。見てみると結構面白かった。おかげでゆっくりと休めたが、まだ時間が有るのでメシを喰うことにした。その映画館の中の食堂街をウロついてカレー屋に入ることにした。これも次男のリクエストで、こいつはとにかくカレーを喰わせておけば文句を言わない程のカレー好きなのだ。この前も大塚で別れ際に「お父さん、帰りに南浦和でカレー蕎麦を食べるから蕎麦代ちょうだい」だってサ。駅のコンコースにある立ち食いで一人でカレーソバ喰ってる5年生の子供ってやっぱ変だよねぇ。
この大阪のカレー屋は、結構洒落ていて店員のおねいさんも愛想が良くて気持ちよかった。東京のカレーやなんぞにあんなサービスは無い。さすがに商売の町というだけのことはあるなぁと思いつつかなりの満腹状態で大阪駅へ向かう。その道すがら、ロックバンドの演奏がかなりの音で聞こえてくる。ほう、こんな繁華街の駅前に野音があるのかいな、と思いつつ歩を進めると、何とそれはただの路上ライブ野郎だった。東京で言えば銀座のINZの前に発電機とアンプとドラムセットを並べて爆音でライブを演ってるようなもんだ。しかも1つだけじゃない。あそこの道ばたにも、そして何と歩道橋の上でも...いやいや、これも文化の違いってやつか?
大阪駅ではヘンな電車(武蔵野線を走ってるのと同じ型なのに戸袋を埋めたり運転席の窓桟を無くしたヘンな改造をしてある)がガンガン来るし、もう目眩がして倒れそうだった。
急行だいせんは草臥れた気動車ながらもDML30エンジンの音やらレールの継ぎ目のリズムが心地よく、うとうとしている間に倉吉に着いた。鳥取を通り越して倉吉まで来たのは、素直に鳥取で降りるとまだ夜明け前、暇を潰せる場所が有るとも思えないため汽車にでも乗っていようという変な考えに基づいての行動だ。鳥取に折り返すと夜が明けて、タクシーで砂丘へ向かった。
砂丘は思っていたより小規模だったし風紋も見られなかったが、見たことのない風景に結構感動した。裸足で砂の上を歩くのも気持ちよい。次男は喜んで砂丘を上ったり降りたりしている。暫くして帰ろうと思うとまだ時刻が早くてバスが無い。次男に観光パンフを渡し、そこに載っているタクシー会社のリストから好きな会社に電話して迎えに来て貰うことにする。「お父さん、子供の声で電話したから信用されてないかもしれないよ」という心配も杞憂で、駅前の銭湯に向かった。銭湯とは言え、天然温泉だ。旅の疲れを洗い流して鳥取からスーパーはくとで再び倉吉へ向かう。
智頭急行から乗り入れているこの特急気動車は長めよし、加速よし、速い、言うこと無しだ。で、倉吉から「鳥取ライナー」で鳥取へ。折り返しまた「鳥取ライナー」で米子へ向かう。う〜む、なんちゅう旅じゃ。
我ら親子の奇妙な行動はまだまだ続く。この後米子からやくもで新見へ。姫新線で津山へ。津山線で岡山へ。素直にやくもに乗っていれば寝ていても終点岡山に素早く着くのにね。何ということもない津山線の草臥れた快速に乗りたいがための難行苦行に良く次男もついて来たもんだな。
草臥れた旅だったが、帰りの岡山駅で本当に久しぶりに見た0系新幹線が何とも懐かしかった。
2001年1月 下北交通を訪ねる旅
平成13年1月6日(土)に下北交通を訪ねて青森へ向かった。下北交通は本州最北端の私鉄で、今年廃止されることになっている。元々国鉄の支線だったが、例の民営分割と合理化で廃止することにしていたのを地元が引き継いで運営するというお決まりのパターンか。
当然、元々客が居なくて廃止しようと思っていた路線って位だからやっぱり何をどう転んでも客が居ない訳で、とうとう持ちこたえられなくなって廃止。
ここにはキハ85型が走っている訳だが、勿論JR東海自慢の高性能特急型気動車ではなくて、元国鉄キハ22型だ。床には大きなエンジン点検蓋があって、その真上あたりは走り出すとまるでエンジンルームに乗っているような騒音状態になる。廃止間近なので鉄道マニアが大勢写真機を手にして乗っているが、普段はきっと空気を運んでいるような状態なんだろう。だいたい3連休初日にして7:3でマニアと一般客、それも丁度座席が埋まる程度しか乗っていない。ということは、マニア抜きにすれば連休初日というかきいれ時にもかかわらずガラガラということになるから、廃止も止むを得まい。
それにしてもこの辺りは随分近くなったものだ。新幹線で盛岡乗り継ぎでも下北交通を3往復して日帰り出来る。
2001年2月 能登へ
能登路の資料です
平成13年2月16日(金)深夜、上野駅は15番線ホームのベンチでぼんやりと特急北陸の入線を待っていた。20年程前、まだ学生だった頃にこの隣の13番線ホームから一関へ向かう客車列車が出ていて、良くそれを利用した。13番線にはその頃にはソバ屋があって、そこで朝食にしたものだ。3輪の、良く宅急便屋が荷物を運ぶのに使っている台車を大きくしたような原動機付きのトラクターが沢山の荷物台車を牽いて走り回っていたし、各ホームには次々と優等列車が出入りしていていつ行っても活気に溢れていた。今では新幹線にすっかりその役目を渡してしまい、当時の面影は全く無い位に静まりかえっている。弁当はおろか、軽食やら冷凍ミカンすら買えない。
特急北陸は本当に久しぶりの客車列車なので嬉しかった。しかし、14系寝台というのがかなり問題だ。この14系寝台車というのは個人的に欠陥の失敗作だと思っている。20系や24系のように電源車を持たず、緩急車の床下に発電用エンジンを抱かせたのが最大の失敗だ。夜通しディーゼルのドロドロという唸りが響いているのでは客車の雰囲気が台無しだし、第一眠れたものではない。これを企画・設計した人達はいったい寝台車というものをどう考えていたのか一度聞いてみたいものだ。ともあれ、隣のエンジン無しのスハネに設けられている椅子で眠くなるまで外を眺めることにする。
夜が明けると雪景色というのは何度経験しても感動するものだ。金沢駅に到着すると、そこここに583系寝台電車改造の通勤電車が居る。何年か前に東北からは絶滅したのだが、こんなところで現役で生き残っていた。元々寝台車だった車体をデッキを撤去して出入り口近辺をロングシートにしたふざけた電車だが、元が元だけに乗り心地は静かで良さそうだ。ただし、格好はすこぶる悪いし、鉄道マニアにも全く人気が無い。
琴の音色の発車メロディーでムリヤリ雰囲気を出そうとしているが、近代的なただのコンクリートのビルになってしまったから全然金沢に来たというような感動や実感が無い。いづれどこの地方都市もこうなってしまうのだろう。
ここからが本命の急行能登路1号だ。この急行は七尾から先が3セク化されたのと鉄道を走る。金沢から輪島まで走るが、穴水から輪島までの区間の廃止が決定している。ちょっとした山越えで景色は最高だし、とても残念なことなのだが、だれも利用しないのでは仕方あるまい。聞き慣れたDMH17H型ディーゼルエンジンの音は寝不足の脳にアルファ波を誘発させる。これが他の気動車だとそうもいかない。途中海岸線を眺めながら車掌とデッキで話し込んでしまった。のと鉄道は殆どがワンマン運転だが、多客の列車には車掌が乗務する場合がある。ピンポーンで始まる自動放送では全く味気ないが、車掌が乗っているローカル線というのはかなり贅沢なことになってしまった。出発時には手笛も聞けてなかなか良い感じだ。キハ58を12分に堪能した後にはのと鉄道のもう一つの終点である蛸島へと向かった。殆どを海岸線を辿って走るから景色は最高だし、穴水から先は47あるトンネルに順々に「い」「ろ」「は」...という名札が付けられているからそれを確認していくのも楽しい。終点の蛸島は何もない小さな集落で、ホームの待合い小屋に書かれていた「蛸島へようこそ、何も無いところですけど」という落書きがとても印象的で、感動的ですらあった。これは、恐らく地元の人が書いたものだと思うのだが、鉄道に対する想い、蛸島という土地に対する想い等いろいろな気持ちが込められているように感じた。
帰りは急行能登で帰ることにする。この急行能登という列車は昔、客車列車だった頃に乗った覚えがある。当時金沢は若い人にも結構人気があって、特に女性が多かったように思う。だから利用客も多くて結局狭いボックス席に窮屈な姿勢で一晩過ごさなければならなかったのだが、まだ若かったこともあって何とか我慢することが出来た。今の急行能登は489系特急型電車で運転される全座席の急行になっている。色あせたボンネット型の所謂国鉄特急型だ。古くなって見窄らしい姿になってしまったが、そこは腐っても鯛。結構静かに走るし居心地が良いけれども椅子はオリジナルのままなので1晩過ごすには少々辛いものがある。しかし、遮音が良いのか室内は結構静かだし、モーターの音も耳障りな音質ではない。12時を回ると車内を暗くしてくれるし、結構行きの北陸号のエンジン付き客車よりは良いかもしれないと思いつつも眠れぬ夜を過ごし、明け方に面白いものが聞けた。朝一番の放送の前に流される目覚ましが面白い。指定席は上野まで取ってあったが、大宮で下車し、武蔵浦和乗り換えで新三郷へと向かった。
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