みんな、ジャムセッションをやろうよ!
◆何故ジャムセッションしたいんだろ?
あれはまだおいらが中学生の頃だった。
身の回りに有る「音の出る物」を片っ端から持ち寄って友人と演奏を始める。
曲なんか全然決まっていない。結局メチャクチャやってただけなんだけれども何だかとても楽しくて、エキサイティングだった。オープンリールのテレコやラジカセ等を駆使してピンポン録音で音を重ねた。
そういった事に関わる全てがエキサイティングだった。例えばカセットのジャケットを作ってみたり、そのための写真を撮ってみたり。手元に有る楽器は、エレキギター・ベースと生ピアノとカズーだけだったからナベ・ヤカンの類やらふすまを箒で叩いたり、電卓の計算ノイズをAMラジオで拾ったり、とにかくあらゆる「音」を作った。生録して来た電車の音なんかも貴重な音源だった。
その時には何をやっても自由だったし、誰に聴かせる訳でも無いので誰にも批判を受けることなんか無かった。ただし、その場で相手が何をしようとしているのかは常に理解しておく必要があり、それだけが暗黙のルールだった。今にして思えば出来たものは稚拙なローテク・ローファイでチープなものかもしれないが、演ろうとする精神だけは今でも自分の中に息づいている。
だれかと互いに影響し合いながら時間と空間を音楽で埋めて行く作業は楽しいんだよ。

◆その場に音が有り、それが音楽として成立し得るかどうか...
この命題に正解を言える人は居ないだろうし、そもそも正解は無いのだと思う。何故ならば、それはその瞬間に於ける個々の解釈そのものであり、時間・空間・個に強く依存するものだからだ。
となると、演奏者は何を目指すべきなのか、その目標さえ定義出来ないことになる。
しかし乍ら、その瞬間において聞き手の精神活動に何らかの影響を与えなければそもそも演奏自体が存在しなかったに等しいということは言える。
偉そうに難しげな事を書いちゃったけど、要は聴衆のハートに何かが届くかっちゅうことだよね。
で、聴いてる人のハートに「どうだ?良いだろ?なっ?」と演奏で訴えるんだけど、これがただハデに弾きまくったりハイテクを見せつけりゃいいってもんじゃない。ジャムセッションとなるといっしょに演ってる人間が居る訳だから、お互いにうまくやらなきゃイケナイし、自己主張ばかりじゃ逆効果になるよね。
そうやっていろいろと脳ミソを使わないといけないから興奮する。ギャンブルにしてもセックスにしても興奮は人を幸せな気持ちにするのだ。
特にね、演奏が終わって緊張が一気に解き放たれた瞬間はもうこりゃ笑うっきゃ無いのだ。

◆ブルースは退屈という人も居るけれど..
ブルースってある程度のヴァリエーションはあるけれど、みんな似たり寄ったりで退屈だよねって人が居る。
演奏もたいして難しくないしって人も居る。
コードなんかT、U、W、Xだけで足りるんだしリズムだってスローとハチロクとシャッフルだろという人も居る。
でもさ、そうやってレギュレーションをキツくして手足を奪って行くと今までに無い次元での発想が発見出来ることってあるんじゃない?フレーズやトーン、テンション、ダイナミクスとか更にはノイズとかビジュアルなんかも。
考えてみりゃワンコードの曲なんかもそうで、ワンコードという制約の中でもがき苦しんでコード以外の表現をあの手この手で繰り出して来るんですわ。
そういや俳句や短歌なんかもそうだよな。制限キツいよね。ボソッと言ったその一言が人生を変えるみたいな。退屈だと思ってんなら退屈しないブルースを聴かせてくれよ。あ、それが出来ないから「ブルースって退屈だよね」になっちゃうのか。
でも実際問題としてそりゃ結構むずかしいですわ。そっか、ブルースは簡単なようで簡単じゃないんだな。

◆ジャムセッションって怖いと思わない?
そりゃ怖いよ。自分のしくじりが全体をダメにするかもしれないもんね。でも、ある一人のしくじりで全体がダメになっちゃったとしたらそれはしくじった人一人の責任じゃない。
他の参加者がリカバー出来なかった..もう一歩前向きに考えて、そのしくじりをプラス面として活かせなかったんだからね。だから、その辺もウデの見せ所な訳で、「あいつはヘタだからいっしょに演れない」なんてのは「自分はダメなプレイヤーで自分よりうまいプレイヤーに面倒見てもらわないと演奏出来ない」ってのとおんなじことなんだな。
失敗を恐れて冒険が出来ないとつまらなくなっちゃうし、かと言って身の程を知らずにムチャばっかりやってると自爆の連続で他人に迷惑ばかりかけることになっちゃう。その辺りを心しておけばいいんじゃない?

◆楽しむっていう事を勘違いしていないか?
スポーツでも最近はあんまり「根性」とか「辛抱」とか聞かなくなったね。そういうのは相撲を始めとする格闘技系にはまだあるみたいだけど。そういう言葉の裏には「楽しむ」のは「楽をする」ことであり、不真面目で怠け者の印象があるっていうメンタリティーがどこかに臭う。
「アリとキリギリス」の話でもバイオリンばっか弾いて遊び惚けてたキリギリスさんはみじめな冬を迎えましたというオチになっていて、音楽行為が真面目さ、勤勉さの対極の例として扱われている。
で、「楽しむ」ってのはホントにそういうこと?...ちょっと待っただよね。
おいらは「楽しむ」ってのは自分の力量を出し切って悔を残さず満足するためにイロイロと知恵を絞ることなんじゃ無いかなと思う。知恵を絞る、発想する、創造するってことは脳ミソがフル回転している状態になるからハッピーな気持ちになれる。つまり興奮はハッピーだということね。
一期一会、一発勝負のジャムセッション、何が起こるか解らない、そんな場所ではやっぱり良い意味でテンションが上がって脳ミソがフル回転状態になるからハッピーだ。イっちゃってる訳だ。
思うに、練習だって演奏成功への一過程としてのトレーニングだと思えば楽しめるよね。勝利へ向けての辛い稽古も根性を出して辛抱するなんて考え方は前向きじゃぁ無い。
最近はスポーツ選手も「楽しんで来ます」って言うようになったね、良いことだ。

◆そういうおいらもたいしたこたぁ無い
幼稚園でヤマハの音楽教室へ通い、オルガンを習い、小学校に上がるとヤマハをやめて中古のピアノを買って貰った。
父親が全音のバイエルの教則本を買って来たが、真面目に1番からコツコツと練習する気になれなくて最後のページに載っていた「エリーゼのために」を練習した。
近所の女の子の家に遊びに行った時にオルガンで弾いたら誉められて5回アンコールした。とても嬉しかった。
その次がバッハのインベンション、最初のページの曲だけ練習した。それからトルコ行進曲やらモーツァルトやらベートーベンやらを練習する訳だが、全て独学なのでレコードを聴きながら譜面を見て1小節づつ積み重ねて行った。当然の事ながら、効率はメチャメチャ悪く、1曲弾けるようになるには1年かかったりしていた。
でも誰に強制される訳でもなく、出来る範囲でやるのだから結構楽しかった。
別に一流ピアニストに成りたいとも思わないし、音楽を生業にしようとも思ってなかったからね。
「何でもやり通せば最後には何とか出来るもんだな」という事もピアノから教わったのである。
そんなこんなでクラシックも聴いたし、レッドツェッペリンやらクリームやらも聴いたし、リーリトナーやらウェザーリポートやら、コルトレーンやらジェームスブラウンやらとにかくイロイロと首を突っ込んだりしたもんだからギターもベースも持っていた。
で、ある日友人から電話が架かって来て、「おい、オマエさんベース持ってたろ?ウチのバンドで弾けや」と言われることになる。ベースねぇ、持ってるには持ってるけど相当ボロだし殆ど弾いたこと無いんだよなぁと思いつつもスタジオに連れて行かれて「何とかなりそう」と錯覚もしてしまったもんだから、30の手習いで弾き始めた。スクールに通う訳でもなく、只々演奏曲のベースラインを聴きまくって(最低でも100回は聴いていると思う)頭にタタキ込んでスタジオに行く日々。自宅でも殆ど弾かないし、それで何とかなっていた(と思いこんでいた)んですわ。で、ある日スラップを演らなきゃならないハメになって、それが全然出来ないことに気が付いた。う〜ん、アレってどうやってんだろ?という動機から家でも弾くようになった。
自慢しているように聞こえる人も居るかもしれないけど、そんなたいしたモンじゃ無いです。要は先生について地道に努力する辛抱が出来なかっただけで、全く独善的に音楽して来たんだからね。今思うにちゃんとやってればもっと効率良くスゴいテクが身に付いたのかもしれないけど、そんな事を今更言ってもしかたない。後悔している訳でも無いし。
演りたいという気持ちが有れば(こんなおいらでもこの程度には弾けるようになるんだから)まぁ誰でも楽器を手にしていいんじゃない?
やめずにずっと続けてりゃ少しづつでも上手くなるし、たとえ小さな満足でも嬉しいし、嬉しけりゃまたそれも進歩に繋がるし。酔っぱけて調子外れなカラオケ歌って身内におだてられてるだけってのも寂しいし。